国境を超えるあなたを応援します
Linguistic assistance beyond borders

(フランス語通訳 旅ブログ)マダガスカル③~2009年のマダガスカル政治危機~

2020年11月27日

フランス語通訳の橋爪さんよりマダガスカルで体験した大統領選挙にまつわるお話です。どこの国も大統領選挙は大変なんだと改めて感じました。(鍋)


僕がマダガスカルに滞在していたのは、前回、書いたように、2006年12月から2010年3月まででした。

その間、特に2009年3月には、首都アンタナナリボで流血の惨事が起きました。
僕の滞在していたマダガスカル南端のフォールドーファンの地まで波及し、現地の若ものたちを中心に、フォールドーファンの市役所広場に集まり、
首都の流血の犠牲者、死者28名を弔うために、デモ行進をし、プラカードを掲げ、若者たちは、「これは国葬に値する」とまで言い放っていました。
ここに至る経緯を今回は説明します。

ちょうど僕がマダガスカルに着いた2006年12月、現職大統領マルク ラヴァロマナナ(Marc Ravaromanana)は、5年間の任期を終えたところで、第二回目の大統領職に立候補していました。
この12月大統領選挙において再選をはたし、向こう5年間の再度の大統領任期を始めたばかりでした。
2007年になると、国民投票により憲法改正に着手しました。
大統領権限の大幅な強化を目的としていました。

その頃のフォールドーファンの人たちの噂を聞くと、
「大統領府が中心権力となり、各省庁は、大統領府の下請け。つまり大統領府が命令したことを、各省庁は実行するだけの機関。」
というものでした。

まあ今、噂話を書いたわけですが、本来は下記のようなものでした。
≪ 非常事態においては、大統領令を発することができる。≫
(大統領令 Ordonnance présidentielle、これは非常事態の時には、三権分立を越えて、大統領は命令を発することができます。橋爪註)

≪またフランス語、マダガスカル語に加えて、第三の言語として英語を採用する≫
≪行政区域を変更して、6か所のProvinces(広域州)という制度を止めて、22か所のRégions(地方)を創設する。≫
≪マダガスカル国家のLaïc(非宗教性)を廃止する。≫
という文言が正式に決まりました。

2008年になると、野党勢力が大統領政権を批判し始めました。
野党勢力の中心はアンドリー ラジェエリーナ(Andry Rajoerina)で、当時アンタナナリボの市長をしていました。
大統領は、アンドリー ラジェエリーナに対し、次第に締め付けを厳しくし、首都の市長権限を奪い始めました。

2008年11月 国際紙のFinancial Timesが発表しました。
「2008年7月に、マダガスカル政府は、韓国の大宇グループに対し、1,300,000へクタールの耕地を99か年の期限で譲渡する。」
というものでした。

当然、世は騒然となりました。
マダガスカルの各メディアは炎上し、ネット上でも新聞でも大統領政府の「国家を売る行為」と非難しました。
それに続いて、大統領のいろいろなゴシップ、汚職話らが持ち上がり、マダガスカル全土は大統領に対する非難一色となり、
またアンドリー ラジョエリーナを首班とする野党勢力は、一気に大統領政府を倒そうとする気配にまで進展しました。

噂では、この1,300,000ヘクタールの耕地は、トウモロコシ畑にするとのことで、大宇グループはそれをバイオ燃料にするという話でした。
しかしこの面積は、マダガスカルにとっては、国家全体の農耕地の半分近くに相当するとのことでした。

アンタナナリボ市長アンドリー ラジョエリーナは、テレビ局(VIVA)を経営していましたが、大統領により閉鎖となりました。
2月7日 首都は騒然となり、激しいデモが始まり、憤慨した野党勢力とその他もろもろの人たちは、大統領宮殿(Palais d’Etat d’Ambohitsorohitra)へと押しかけ、
ここで大統領親衛隊が、押し掛けた群衆に向かって発砲しました。
28名の死者と212名の負傷者がでました。これが流血の惨事の経緯です。

3月16日 マダガスカル軍がアンドリー ラジョエリーナへの支持を表明し、ここにおいて現職大統領マルク ラヴァロマナナは大統領職を辞職し、
南アフリカへと亡命しました。

マダガスカル軍が一時的に権力をゆだねられ、マダガスカル軍はアンドリー ラジョエリーナへ権力を移譲しました。
ここにおいてアンドリー ラジョエリーナは、事実上のマダガスカル国家の長となりました。
(Président de la Haute autorité de la Transition et
Chef de l’Etat de facto)
(移行期最高委員会委員長)

事実上の国家元首です。
2014年この職を離れ、正式な大統領職には立候補しませんでした。
2018年8月 彼は正式に大統領選に立候補します。
競争候補は、旧大統領のマルク ラヴァロマナナでした。

第1回目投票では、
アンドリー ラジョエリーナ 39,2%
マルク ラヴァロマナナ 35,4%

(フランス式の選挙では、第一回目で絶対多数50%以上を取得すれば、選挙はこれで終わりです。
絶対多数を取れなかった場合、第二回目の投票を行います。マダガスカルはフランス式の選挙を行っています。
これはマダガスカル憲法でも決まっています。)

第2回目投票では
アンドリー ラジョエリーナ 55,7%
の得票で選挙に勝利しました。
2019年1月8日マダガスカル憲法院はアンドリー ラジョエリーナを正式な勝利者と宣言し、マルク ラヴァロマナナは翌日敗北を正式に認めました。
そして現在までアンドリー ラジョエリーナが続けているわけです。

このような政治危機を現地マダガスカルにおいて目撃できたこと、また多くの若者たちの政権批判を聞くことができたこと、
これは僕にとってまたとない経験でした。

アンドリー ラジョエリーナは若者たちの絶大な信頼を集めていました。
彼の顔や姿からして、なにやら汚職やゴシップなどとは全く関係ない人物と、マダガスカルの若者たちや民衆は信頼を寄せていました。

彼が大統領になったのは、自然の勢いというものでしょう。
これからのマダガスカルと彼の手腕に期待するところです。

橋爪 雅彦

(フランス語通訳 旅ブログ)マダガスカル②

2020年11月26日

フランス語通訳の橋爪さんよりマダガスカルについてさらに写真と記事が届きました。私がマダガスカルに行ったときはハネムーンの日本人もチラホラいましたが、確かに美しい国ですね。(鍋)


それにつけても僕のマダガスカルの滞在は、やはりいい日が続きました。

首都アンタナナリボ(タナ)のジャカランダをよく思い出します。
マダガスカル南端のフォールドーファンからタナへ出張があるたび、毎年10月から11月はこの花の下を散歩しました。

上はマダガスカルの位置図です。
首都アンタナナリボ(タナとも言います)は海抜1200mの高さにある都市です。

上は首都の中のアノジー湖の位置です。

アノジー湖.です。向こう正面にジャカランダ(Jacaranda)の並木が見えます。

 

 

 

アノジー湖の風景です。

それほど大きな湖ではなく、縦横500m×500mほどの池といった方がいいでしょう。

写真の右手、木の陰に少々隠れていますが、これが湖の中央にある小さな島の中の「黒い天使像」(Ange noir)です。
1927年にフランス人によって建てられたものです。
1914-1918第一次世界大戦で亡くなられたマダガスカル出身兵士を記念して建てられたものです。
(第一次大戦には、アフリカ諸国から宗主国フランスのために、 多くの現地の人たちが応召され、戦い、亡くなりました。)

王妃の別荘
今この像が立っている場所は、19世紀までは、マダガスカルを支配するメリナ王朝の王妃が別荘を建てていました。
1896年 フランス軍はアンタナナリボへ入り、この王妃の宮殿に向かって大砲を討ち、メリナ王国は降伏、崩壊しました。
フランスの支配はこの1896年から始まります。ノルウエイの宣教師団が撮ったという珍しい写真なので、
fr.wipedia から掲載しておきます。 1880年ごろというとまだメリナ王国が存続していた時代です。

 

上の2枚は、僕がタナ出張のおり、いつも宿泊していたホテルの坂道にあるジャカランダです。
ホテルは「ホテル シャンガイ(上海)」と云います。

タナ市内の風景です。かなり人通りの多い都会です。

橋爪 雅彦

(フランス語通訳 旅ブログ)マダガスカル

2020年11月17日

先日のジブチ、エチオピアに続き、アフリカ南方の島国、マダガスカルについてフランス語通訳の橋爪さんより写真と記事が届きました。

私も短い期間、マダガスカルに行ったことがありますが、温暖な気候に田んぼがあったり、現地の方がどこかアジアっぽかったりして、初めてでも懐かしい印象を持てる国でした。是非また行ってみたい国の一つです。(鍋)


本当は、僕が毎日朝夕、いや昼時も眺めている目の前の榛名山について、書こうかと準備を進めていましたが、マダガスカルの昔の写真がごそごそ出てきて、猿たちの思い出がのさばり始め、マダガスカルの猿を載せることにしました。

■ 最初はマダガスカル共和国の位置図です。

マダガスカルの最南端の港町、フォールドーファンです。
2006年12月―2010年3月までの3年3か月間をここで暮らしました。

僕自身、海外生活で、一番長く暮らしたのは、アルジェリアの13年間です。
そして次がフランスのパリ、丁度丸9年間滞在しました。そして次の長期滞在が、このマダガスカル フォールドーファンです。

日本のゼネコンが、マダガスカルから港建設の案件を受注し、その総務・法務・通関・ロジスティック等の担当者として、
今、フランシールの代表をしている鍋田さんの斡旋で、日本から11,000km離れた南半球の島へと赴任しました。

南端のフォールドーファンに滞在して最初に驚いたこと、それは、太陽が東から上り、南へは行かず、北をめぐって、西に没することでした。
これは、北半球育ちの僕には、何としても解せない出来事でした。

しかし気候はよく、一年を通して快適で、季節の移り変わりが無く、一年中、花が咲いている島国でした。

滞在3年目には、さすがに、たまには雪も降ってほしい、山々は、紅葉か黄葉になって、色づいてほしい、厳しい寒さに肌をさらしてみたい等々、人間って、勝手なもので、一年中陽気で温暖で、季節の無い国にいると、ついつい贅沢な無いものねだりが出てきてしまいます。

■ フォールドーファンの風景

正面の山脈のふもとに、ナハンポアーナ村があり、そこが野生動物の自然保護区になっています。

■ ナハンポアーナ保護区(Réserve de Nahanpoana)への入り口

ここで入場料を払ってから自然保護区へ入ります。

■ 保護区の中は、おサルさんの天国です。

茶色いサルたちが寄ってきます。人を怖がりもせず、エサをねだります。
猿の名称は詳しくは知りませんけれど、クビワキツネザル(チャイロキツネザル)のようです。

■ 同僚の肩にとまるワオキツネザル
尻尾が縞模様の猿が有名な横跳びをするワオキツネザルです。

■クビワキツネザル(チャイロキツネザル)
一緒に行った現地クラークと戯れています。

■ベローシファカ

なんだかかわいいですね。

■みなおサルさんはバナナが大好物です。

バナナを持っている人を見かけると、飛びついてきます。

■ 日本人の同僚も飛びつかれそうです。

■ 僕はバナナを持っていないので、安心してみていられます(↓)。

■ 猿たちは決して人間の手を傷つけません。

旅人の木
この木は、マダガスカルの有名な樹で、
葉の部分に水を蓄えていることで旅人を救うということから、
「旅人の木」と命名されているようです。

■ おとなしそうなワオキツネザル。

3年3か月間のこの地での滞在中、何度なく、この保護区を訪ねました。南国の太陽の中で、キラキラ輝く自然の中で、そして楽しかった自分と同僚たちとおサルさんたちを思い出します。
橋爪 雅彦

(フランス語通訳 旅ブログ)エチオピア

2020年10月27日

先日のジブチに続き、そのお隣の国、エチオピアについてフランス語通訳の橋爪さんより写真と記事が届きました。318万年前の人間の身長はみな110㎝くらいしかなかったんでしょうか。その中でも「あの人の方が背が高い」「太っちゃった・・」とか意識しあっていたのかも?皆さんも読みながら是非色々想像してみてください。


今回は、エチオピアの国立博物館を送ります。

1974年の化石人骨ルーシー(Lucy)の発見は、全世界を驚かせる出来事でした。
発掘されたルーシーの本物の骨が、首都アディスアベバの国立博物館に所蔵・展示されています。

ジブチへ仕事に行くたびに、途中乗換えでエチオピアの首都アディスアベバに立ち寄り、一泊することがしばしばでした。
その一泊を利用して、国立博物館を訪ねたわけです。

上の写真は頭の方から見たルーシーです。
エチオピアのアファール盆地のアワッシュ川下流域で発見されたのでアファール猿人と名付けられました。
学名の方は「アウストラロピテクス アファレンシス」318万年前の化石人骨です。
身長110cmと云われています。
(1980年 このアワッシュ川下流域はユネスコの世界遺産に登録されました。)

私たちの学生時代、昭和40年代ですが、大学の一般教養で人類学を学ぶと人類の最初の祖先として「アウストラロピテクス」が出てきていました。
チンパンジーからヒトが分岐した時期を350万年ぐらい前に設定していました。
このルーシーが発見された時、まるで「人類の母」として喧伝されました。
が、これから20年後、やはりアファール盆地のアワッシュ川中流域で、「ラミダス猿人」が発見されました。
この方は、440万年前であることがわかり、またその後同じくアファール盆地の中流域で、「カダッパ猿人」の発見が続きました。
この方は580万年から520万年前と云われていて、ルーシーをはるかにしのぐ化石人骨となりました。

その後、2001年、チャド共和国北東部で、サヘラントロプス(トゥーマイ猿人)が発見され、また一段と大きく時代が遡り、およそ700万年前と云うことになりました。
そいうわけで、現代の学校の教科書などでは、このトゥーマイ猿人700万年前をヒトとチンパンジーの分岐点としています。

歴史は塗り替えられてきましたが、このルーシーの発見は、全身の40%の骨が発見されたということで、これほどのまとまった骨を見出すのはほぼまれであり、
また直立二足歩行の痕跡がはっきりと見てとれ、私たち現代人の直接祖先ではないが、人類史の中で貴重な資料となっています。

上の写真は足元の方から見たものです。

↑ 横から撮ったものです。
エチオピア現地語の「Dinkenesh」(ディンキネッシュ)という名称も与えられています。
説明によると「貴女は驚異的だ」という意味だそうです。

110cmの複製ルーシーと一緒に写真に撮りました。

エチオピア高地へ向かっていく前の盆地がアファール盆地です。
ルーシー、ラミダス猿人、カダッパ猿人はこの地で発見されました。

ルーシーが発見されたアワッシュ川下流域です。
前回、ジブチのアッサル湖を書きましたが、アッサル湖からこのアワッシュ川下流域まで直線距離で370kmです。


700万年前から、人類はいろいろな猿人に姿を変え、進化し、滅亡し、また進化し滅亡して、20万年まえから30万年前にようやく現生人類の直接先祖となるホモサピエンスに到達しました。

ホモサピエンスの頭蓋骨(エチオピア国立博物館蔵・展示)

このホモサピエンスが世界各地に拡散し、現代の私たちになっています。

橋爪 雅彦

(フランス語通訳 旅ブログ)ジブチ②

2020年10月15日

先日もブログ記事を寄せてくださったフランス語通訳の橋爪さんより、東部アフリカの国、ジブチ国について第2回目の記事です。
写真の日付は2013年。たったの7年前!世界は広いですね。


ジブチ共和国を業務の関係で周遊したとき、たまたま紅海を見下ろす高台のホテルに宿泊しました。
オボックという港町からそう遠くはない場所でした。

なんだか見たことないホテルでしょう。
各室は独立したヴィラになっています。
ヴィラの材質は未加工木材と織布(?)のようなものです。

ホテルのレストランです。
眺望は素晴らしいものです。
夕食、朝食はここで取りました。

ホテルの部屋の入り口です。
この布みたいなもの、これで部屋は作られています。

高台のホテルから見る紅海の入り口付近です。
一緒に宿泊した一人が、この下の海に面するヴィラで泊まりました。
夜、彼この紅海の入り口で泳いでいました。

夕食に出たオマール海老です。
イセ海老とはまた味も雰囲気も違います。
美味でした。

これが高台の寝室です。
高台には10室以上あるように見受けました。

いやあどうも、その布みたいなものでできたヴィラ(部屋)に泊まるのは、
生まれてはじめての経験で、
床は、どうもコンクリートが打ってあるような感じで、
また暑いのでエアコンも装備されていますが、
このエアコンの音がすさまじい音なので、
なかなか寝付かれず、朝まで蚊帳をかけたまま、
意識は目覚めたままでした。

朝、日の出とともにヴィラの外へ出ました。
ホテルの従業員が、庭の中で眠っていました。
広い庭の中で、ガードマンを兼ねた寝泊まりなのでしょう。
それなりにホテル側の気の使い方を感じました。

向こうに紅海を見ながらの朝食です。
いい歳をして、なんだか皆(僕を含め)はしゃいでいるように見受けました。

このパンが一種独特です。
かなりおいしいものです。
現地の人も、朝にはかならずこのパンから始まるそうです。
パンの名前を聞きましたが、忘れてしまいました。

朝食です。

レストランの裏手では、
ホテルの人たちが朝食をとっていました。
やはりこのパンを食べていました。

ホテルの朝食係りの女性たちです。


因みにジブチの位置図を送ります。


このホテルへ宿泊したときの、
旅程の図になります。
行きは4輪駆動で、帰りはオボックから巡視艇でジブチへ戻りました。

オボックのホテルの位置図です。
―終わりー

1 / 10

最近のコメント

カテゴリー

月別アーカイブ

お気軽にご相談ください。
翻訳者・通訳者を募集しています。

アクセス


株式会社フランシール
〒171-0031
東京都豊島区目白4-19-27
TEL:03-6908-3671
FAX:03-6908-3672
株式会社フランシールは、プライバシーマークを取得し個人情報保護に努めております。

最近のコメント